2018年10月1日月曜日

藤代一族についての一考察

藤代一族をめぐる旅
室根神社開山1300年特別大祭に向けて


はじめに
 私と同じく「藤代」という名前をいただいて生まれてきた人の中には、一度や二度ぐらいはその姓の来歴について考えてみたことがあるだろう。
 藤代(読み仮名でなく)という姓を持つ者は、10,100人程世の中に存在し、全国的には1597番目に多い苗字であるそうだ。(苗字由来ネットhttp://www2.myoji-yurai.net/)
この数字が信用に足りるものなのかどうかは調べようがないが、全国電話帳データなるものを素数としているので、ある程度の比率割合はつかめるのではないだろうか。
 日本の全人口から言えば(数値的には0.01)藤代姓は決して多いとはいえず、かといって希少な苗字であるとは言えない。ということは、ある時代から一定数の家族がこの苗字を名乗り、そして氏族を維持してきたというだ。(増減は不明) 私たちの地域のように(郡や市というコミュニティに)一定数の藤代姓を持つ人々が集住している地域であれば、そのような疑問もそれほど深刻にはとらえない。なぜなら、他の地域にも同じように藤代姓がいるのだろうという錯覚が生まれるからだ。
もし、地域の中にこの姓が他に見当たらない家族であるのなら、当然己の家系のルーツはどこにあるのだろうと探したくなるだろう。
 (戸籍やお寺の過去帳で)一族のルーツについては、ある程度たどれるものも多いだろう。そして一族のふるさとともいえる本籍地まではわかるのだが、問題はその先の本貫地である。一族の遠き祖先が生まれ暮らした大本の場所がどこであるのだろうかということは、
なかなかたどり着くことができない。
 それは単に、近世まで姓を持たない民が多かったということが理由ではない。本来の姓ではないが江戸時代にも、地域や集落の中で一族を識別する屋号があった。「〇〇のダレベイ」というように、そのルーツや由緒の手掛かりになるものは、お寺の過去帳からも調べることができたのだ。
 しかしそれでも、近世以前の本貫地となると格段とそのルーツはたどり難くなる。
荘園領主の領地や、武士の一党の家系、寺籍のルーツや、氏族の移動などから類推するより他はない。
 藤代の本貫地を、上記の苗字由来ネットで検索すると、極めて簡潔なその本貫地が表示されている。
現和歌山県と三重県南部である紀伊国名草郡藤代村が起源(ルーツ)である、藤代宿禰。ほか嵯峨天皇の皇子で源姓を賜った氏(嵯峨源氏)、穂積氏などにもみられる。「藤」は藤や葛の木、また藤原の氏を表す
 
 紀伊国の名草の藤代が、現在のどの地域につながるかというと、それは和歌山県海南市、藤白神社(藤代王子)のあたりと言われる。
 この地域は古くから、熊野信仰の参詣道として、京都から天皇や公家や御幸のルートとして開けており、平安後期からは、白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇が何度も熊野御幸を繰り返していた。京都から熊野への道行き(中辺路)に点在する九十九王子の中でも、格式高い五体王子のひとつ といわれるのが藤代王子だ。
 この場所が、大和との境界であったという由縁がこの地に残されている。この境内地併設されている有間皇子神社とその史跡には、「藤白の み坂を越ゆと 白妙の わが衣手は 濡れにけるかも〈万葉集・巻9巻 作者不詳 」孝徳天皇の皇子であった、有間皇子は、謀反の罪で中大兄皇子(後の天智天皇)によりこの地で絞首刑になったのだ。大和を出たとたんの藤代坂で殺されたという。
 そんな由緒があるこの地には、もう一つ別の歴史がある。それはこの神社敷地内に平安時代に熊野から移り住みつき、約122代続いたと言われる鈴木氏の屋敷跡があるのだ。
 この氏族がここを拠点に全国3,300あると言われる熊野神社を建立し、熊野信仰を広めたという由緒をもっており、全国的に二番目に多い苗字といわれる鈴木姓の本貫地として知られている。
 その鈴木の本貫地は、もともと熊野三山のある新宮の神官を受け継ぐ家系であり、神武東征の折り天皇より賜った「穂積(ほずみ)」家の後裔だと伝わる。穂積とは稲の穂を「稲むら」のことを示し、その中心に立てる一本の棒を熊野では「聖木(すすき)」と呼び、転じて「鈴木」となったと伝わる。
 平安中期の頃よりこの藤代の地から熊野神社が勧請され、鈴木の名前も全国各地に広まった。この流れから謂えば三千社を超える熊野社の勧請により鈴木姓が広がったことは理解できるが、「なぜ藤代()姓が別にあるのか」という疑問が当然ながら湧いてくる。
 その疑問の答えにはならないが、明治期に世界に認められた偉大な博物学者として南方熊楠がいる。彼は現在の和歌山市で金物商を営む家の次男として生まれた。
藤白神社の氏子である南方家では代々、生まれた子供に藤白の藤、熊野の熊、社地にある楠の楠から一字いただいて名前としていた。両親は体の弱かったこの子に、熊と楠の二字をいただいて名前にしたという。(長男藤吉・長女くま・次男熊楠・三男常楠・次女藤枝・四男楠次郎の6人が生まれている。)
 この藤白神社は、熊野五体王子としての熊野信仰の役割が位置付けられているのだが、藤白神社として固有の祭神を持っている以上、もともとは熊野信仰とは別の信仰だったとも考えられる。藤白神社の祭神は、
 熊野坐大神  (家津御子大神・本地 阿弥陀如来・熊野本宮)
 熊野速玉大神 (伊弉諾尊・本地 薬師如来・熊野新宮)
 熊野夫須美大神(伊弉冉尊・本地 千手観音菩薩・熊野那智山)
 天照大神   (藤白王子若宮・本地 十一面観音菩薩)
と、神仏習合の形態をとどめる表記となっているが、元は饒速日命(ニギハヤヒ)が藤白鈴木氏の氏神として祀られていたと考えられるからだ。
 ニギハヤヒは、別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。天照国照彦火明櫛玉饒速日命ともされる。物部氏穂積氏熊野国造らの祖神と伝わっている。
 古事記や日本書紀では、神武東征の折、大和の豪族として敵対したナガスネヒコは、ニギハヤヒの子孫であることを表明している。
 その意味では、ニギハヤヒは天孫に対抗し征服された土着族(先住民)と言えるだろう。
その文脈から考えられるのは、(名草)藤代氏は天孫の大和王権勢力に敗北し従属した氏族として位置づけられているのかもしれない。
 別の視点から説明すれば、藤代氏族が祀った藤白の神は、熊野信仰という神仏混淆の新しい(渡来)神に行基(668-749)が生まれ変わらせた(すり替えた)と言えるのではないだろうか?
 それはこの時代、日本に新たな信仰(神仏習合)を産み出した行基や泰澄が、全国各地で行った文化(宗教)革命といっても過言ではない。
 熊野信仰を支えた氏族の末裔である鈴木氏の祖先は、(神仏混淆化された)熊野信仰を携えてこの藤代神社を熊野化(ヤマト化)したと言えるのではないだろうか。
 そもそも、ニギハヤヒをルーツとする物部氏が崇仏派の曽我氏と対立し歴史の表舞台から追いやられた史実があるのだから、物部氏を氏神として位置付ける地域が奈良の新都の近くにあることは非情に好ましくなかったのだろう。
 そんな仮説を裏付けるかのような由緒を持つ地域が東北にある。
藤白()の名前を持った人々(160)が集住している、岩手県一関市室根町折壁大里という地域だ。
 この地域の古い歴史を調べると、その痕跡のような事象が残されている。
東北の唐桑半島に熊野神が祀られるようになったことを物語る由緒にその記述がある。

「養老二年(718)に、紀伊穂積重義,熊野神社を勧請、牟婁峯神社ト称ス、明治初年現社名(室根神社)ニ改ム」 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇は、蝦夷降伏の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じました。 天皇の命を受けた紀伊国名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人が、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み4月19日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、五ヵ月間もかかって9月9日に本吉郡唐桑村細浦(今の鮪立)についたと記す。

 熊野信仰を関東や東北に広めた歴史の中でも最も古い記述となるが、単なる信仰圏の拡大というレベルを超えた天皇の勅命による大事業である。
 その事業の責任者として派遣されたのが、名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義であり、数百名の従者を引き連れ、船で5カ月をかけて陸奥に上陸したというのだ。
東北の蝦夷討伐の鎮護として実施されたこの事業がどれほど重大な意義を持っていたかを物語る由緒だが、あくまでそれは地域に残された伝承であり、史実としての確認はされていない。伝承ではその後、鈴木左衛門尉穂積重義以下数百名の者がこの地に残ったと伝わっている。
 由緒では、熊野神を東北鎮護のために勧請したのが名草藤代の鈴木左衛門穂積重義として記述されているが、その地域に色濃く集住しているのが藤代一族ということになる。
藤代姓でいえば極めて特徴的な地域偏重を示しているが、実は鈴木姓もこの地域(一関市)が岩手県で一番色濃い特徴を示している。
鈴木姓と藤代姓の違いがどのような理由によるものなのかは現段階では明確にできないが、ともに同じ名草藤代を本貫としていることは事実である。
 また少し時代は下るが、福島県いわき市にある熊野社には「延暦二年(783)、佐藤権守藤原吉次、紀州熊野権現を勧請し、自ら神職となった。 」という由緒が残っている。その所在地はいわき市常磐藤原町藤代となっている。しかしながら、ここには藤代姓の痕跡は見当たらないが、福島でも二番目に多い姓である鈴木姓は、その中でもいわき市はダントツの二万人が暮らす地域である。

 また、茨木県の取手市には近年合併された旧藤代町があるが、ここにも藤代一族の集住はないが、そこから利根川を下った河口部にあたる神栖市に北関東では最大の集住地域(440)となっている。
 そして、藤代姓最大の集住地域であるのが千葉県(4300)だが、その中でも千葉市(1100)と船橋市(690)が最も人口密度の高い地域となっている。ちなみに鈴木氏の多い地域は、船橋市と松戸市となっている。
 藤代氏の分布を見ていくと、千葉から茨城、福島、岩手県一関市(平泉町を含む)に伸びている藤代ラインが見えてくる。しかも太平洋沿岸につながるラインである。
鈴木姓もよく似た比率構成になっているが、鈴木姓の人口が圧倒的に多い。
このような数値を前提に考えると、熊野信仰の勧請という歴史の中で藤白鈴木一族氏(藤代氏を含む)が果たした役割についてはほぼ実証されているといえるだろうが、しかし、その中で藤代一族の役割と意味はどうなっているのかはまだ見えてこない。しかし、藤代神社が両者の発生の原因になっていることは明らかな事実である。
 さて、ここまで来て新たな問題として立ち現われてきたのは、郡上の藤代ラインがどのようなルートで延伸してきたのか?、また、西に延びるラインはどうなっているのかということだ。

 藤代家の過去帳を持つ、浄土真宗本願寺派円光寺は、天長四年(827年)、藤代次郎左衛門という人が、草創したのがはじまりとされている。
 この伝承が事実とすれば、827年以前から藤代一族が郡上に居住していたということになる。円光寺の小字は大間見藤代となっている。現にこの地域には多くの藤代氏が古くから居住している。であるとしたなら、熊野信仰の伝播を使命とした古代藤代氏がたどった移動の時期と重なるということになるが、残念ながらそのような資料は残されていない。

 もう一つのルーツとしてこの地域にはもう一つ別の歴史が重なっている。
戦国時代最強の鉄砲集団であった雑賀衆。その頭領として石山寺合戦で信長をも苦しめた雑賀孫一の本名は鈴木孫一であり、 この藤白の鈴木一党の血をひいている。
合戦が激しさを増す中で、雑賀衆門徒もこの闘いに激しく挑んだ。
 石山寺からの退去を余儀なくされた顕如は和歌山の鷺森別院(雑賀御坊ともいう)に逃れた時、越前・美濃の一向宗門徒が真綿、糧米 などを提供し支援した事績(教如への支援もあった)により、後に『九ヶ門徒、六ヶ八ヶ門徒』として直参門徒と位置付けられた歴史を持っている。
  藤代家には「先祖は雑賀孫市である」という伝承が語られており、私自身も子供のころから父()からその話を何度となく聞かされてきた。(しかし、これは司馬遼太郎ファンであった父の妄言であったのかもしれず、現在では確認しようがない)
 ただ、雑賀衆の家紋はヤタガラスであったようで、元は藤白の鈴木をルーツに持っていることは間違いない。熊野信仰と門徒衆がこの地域では色濃く重なっていた事がうかがえる。
 熊野信仰(藤白鈴木)の伝播と一向宗門徒の来歴が紀州(雑賀・鷺森)から濃北の地に重なっているわけだが、この来歴を証明する資料は見つかってはいない。
 しかし、深読みをするならば、平安末期頃から熊野修験の拡大はこの地にも色濃く残っており、また白山信仰との親和性から白山の麓に阿弥陀(浄土)信仰の土壌が形成され、それが越前や美濃の浄土真宗の進展に寄与したことは歴史的な事実としてある。
 熊野信仰にルーツを持つ古代藤代一族が、嘉念坊善俊の奥美濃への真宗展開の中で何らかの役割を果たし、直参門徒である九ヶ門徒の一員として今日まで語り継がれてきた由緒を持っているのかもしれない。
 これまでここでは、郡上の藤代一族のルーツを探るというワンイシューで考察と推論を進めてきたが、これからもう少し俯瞰的な視点から"私たちのルーツ"という課題に踏み込んでみたい。

 再び藤白神社からのスタートとなるが、この神社の主祭神はニギハヤヒという神となっている。この神の名を初めて聞く人も多いと思うが、この神は日本の記紀(古事記、日本書紀)の中で、初代神武天皇が神武東征の折、先住民であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。 天つ神ニニギノミコトが天下り国土を平定する前に、先に天下り先住していた渡来民の祖先と言われている。ナガスネヒコが神武に敗れた後、神武に帰順して忠誠を誓ったと記述される。歴史的には、曽我氏に滅亡された物部氏の祖先として位置づけられている。
 ニギハヤヒノミコトは別名、櫛玉命(くしたまのみこと)。天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあまのほあかりのくしたまのみこと)ともされる。物部氏の祖先とともに穂積氏、熊野国造りの祖神と伝わっている。

 穂積氏は熊野信仰を伝えた藤代神社の鈴木氏の本貫である。
現在、ニギハヤヒの尊を祀る主要な神社としては、物部神社、廣瀬神社、東海では真清田神社、籠神社などがあるが、全て渡来系の祖先として祀られる神々の系譜としてある。
古事記に記述された物語と藤白神社の由緒を結び付けて考えてみると、そこには新たに現れた渡来系の天つ族にその地の支配を譲り、辺境へと旅立った一族の流浪の姿が見え隠れしてはいないだろうか。
 この推論に、正史の闇に葬られた物部一族の歴史も重なって見えないだろうか。
 安住の地を目指した、藤代一族の流竄は、出雲神話を著書『神々の流竄』の中で神隠しとして書き表した梅原猛氏はその情景を描写している。記紀に残された国譲りの物語は、新たな支配民族(ヤマト族)による先住文化の支配であることは間違いない。
 物語が一気に壮大なテーマ性を帯びてしまったが、あながち的外れではないことは、蝦夷や隼人、熊襲、土蜘蛛として描かれてきた正史が、先住民とその神々の姿を隠ぺいするための物語に過ぎないことは既に歴史が証明している。
 ヤマト族による出雲大社の造営に見られるように、各地で支配の最終装置として先住の神々を封印しその祟りを祀ってきた。天武天皇は天武四年(675)に奈良の廣瀬に大忌神を祀り廣瀬大社とし、毎年のように祭祀してきたことが日本書紀に記述されている。
天武天皇は明らかに支配の中で排除した先住の民族と神々の祟りを恐れていたのだ。

 一説には、天武持統朝において、元来祀られてきた男性神のアマテルとその一対の神として祀られてきた姫神を、アマテラスとして一神の女神と改竄祭祀したと言われている。
 歴史を眺めてみれば、時の支配者は常に史実を合理化し、都合の悪い真実を闇に葬ってきた。葬った真実の祟りを恐れて始まったのが御霊信仰と言える。
 その意味においては、伊勢の本元神、熊野の本元神、白山の本元神、高野山の本元神、ひいては蝦夷の本元神の姿を隠し、新たな神を鎮座させてきた大和(国家)化の歴史突き進んできたとも言えるのではないだろうか。
 しかし、秘すれば花の言葉通り、隠してきたものの意味は問われいずれ暴かれる。
闇に葬った真実は、いずれは人々の眼前に明らかにされることは時間の問題である。
私たちは長い時間をかけてこの地で生き延びてきた。大自然や時代の逆境にも耐えながら地を這うように生きてきた。いずれ何らかのきっかけで、この呪縛から解放される時が来たなら、グレートジャーニーにふさわしい我々の旅の意味を知ることもできるだろう。
親から子へそしてその孫へと引き継がれる人と大地の物語の中にあることを今は感謝することが大切だと思う。
資料(苗字由来ネットから)
フジシロ 藤代 千葉県、茨城県神栖市、岡山県井原市。①合略。藤原の略。藤原の「藤」の字を残したもの。千葉県市原市奉免では藤原氏が帰農して改姓したと伝える。岩手県一関市の室根町では岩手県西磐井郡平泉町から来住した藤原氏が擬装するため「藤」の字を残して改姓したと伝える。推定の時代は鎌倉時代。②藤白の異形。埼玉県幸手市平須賀では藤城姓から改姓したと伝える。※茨城県取手市藤代は江戸時代から記録のある地名。岩手県一関市室根町折壁篠原では千葉県の藤代村の出との伝あり。位置不詳。
岩手観光協会HPから
https://www.iwanichi.co.jp/2018/01/01/130216/
室根神社勧請1300年 今秋、特別⼤祭 荒ぶる魂 伝統連綿 と【⼀関】 ⼀関市室根町の室根神社が紀州(現和歌⼭ 県)から御神霊を勧請し、今年で1300年。 勧請の様⼦を故事に倣い再現する室根神社特別 ⼤祭がこの秋、3年ぶりに開催される。3⽇間 の期間中、最終⽇に⾏われる「マツリバ⾏事」 は1985年に国重要無形⺠俗⽂化財に指定さ れており、祭りは最⾼潮に達する。⼀連の祭事 は729(天平元)年が起源とされ、東北三⼤ 荒祭りとして連綿と受け継がれてきた。勧請か らの⼤きな節⽬の年を迎え、⼤祭を⽀え、奉仕 する地元の⼈々にとって新年に懸ける思いは格 別なものがある。 社伝によれば、室根⼭8合⽬にある室根神社 の本宮は養⽼2(718)年、鎮守府将軍の⼤ 野東⼈(あずまんど)が紀州本宮から熊野神の 分霊を迎えたのが起源とされる。紀州から船団 で5カ⽉かけて今の宮城県気仙沼市唐桑町に運 ばれた後、仮宮安置などを経て勧請。隣にある 新宮は1313(正和2)年、紀州新宮の御神 霊を勧請したとされる。 ⼤祭は、最初の勧請が旧暦うるう年の翌年秋 だったことを受けてその暦通りに⾏われているため、およそ3、4年に1度巡ってくるが開催は不定 期。祭事に関わる⼈々は神役(じんやく)と呼ばれ、勧請などに奉仕した累代の⼦孫とされる。その 分布は⼀関市室根町を中⼼に、千厩町、⼤東町、川崎町のほか、⼤船渡市、気仙沼市などと広い。 祭りが近づくと、室根⼭の麓に設けられた仮宮などには巨⼤なのぼり旗が⽴ち始める。祭事の最⼤ の⾒せ場は最終⽇の朝。未明に室根神社を出発した本宮、新宮の2基の神輿(みこし)は陸尺(ろく しゃく)と呼ばれる男衆に担がれ、町場から祭り場にある仮宮を⽬指して激しい先着争いを繰り広 げ、⾒物客も熱気に満ちあふれる。 数年に1度の⼤祭は、数多くの役⽬が世襲制となっているのが特徴だ。しかし、近年は少⼦化や後 継者不⾜といった課題があり、保存会形式として伝統を守る動きも出始めている。 室根神社総代⻑の藤原利彦さん(80)は「時代の流れに合わせつつも、これまでと変わらない伝 統的な部分を⼤切にしていかなければならないのが難しいところ。参加する皆さんがやりやすく、1 300年の節⽬にふさわしい盛⼤な祭りにしていきたい」と意気込みを語る。
 国指定重要無形民俗文化財登録を受けている、1300年の古式を今に伝える、東北三大荒祭りの一つとして名高い祭り。
 故事に則り旧暦閏年の翌年にのみ開催される習わし。
古式に則り陰暦の9171819日に執り行われることになっていたが、長きにわたる世襲制の維持が難しくなりつつあり、平成19年大祭より今般のように陰暦になるべく近い10月最終週の金土日の開催となっている。
 祭りを構成する「神役」と呼ばれる人々は、室根地域に限らず、一関市内はもとより気仙沼・陸前高田市を含め、室根山をランドマークとした広域に散在している。
 その祭りの始まりは、今から1,300年前 養老年間に、紀州(現在の和歌山県田辺市本宮町)熊野大社からの分霊が気仙沼市唐桑の沖合から陸揚げをし、当地に坐したことに由来し、唐桑湾の「御塩汲み」と言われる行事に始まる。
 また、御神体を奉る「室根神社」は「御鍵持ち」と呼ばれる神役が川崎町(旧川崎村)より駆けつけることにより始まることになっている。
 祭りのクライマックスとなる神輿先陣争いは、「本宮」「新宮」と呼ばれる二体の神輿が、3日目の早暁室根神社から麓の「マツリバ」を目指して一気に暗闇の参道を駆け下るが、神社での「御魂写し」後、これらの仕切りは神職から「頭取」と呼ばれる神役に一切の権限が委ねられ、何人たりともこの頭取の下知には従わねばならない。
 この頭取の差配により「陸尺(ろくしゃくと読む)」と呼ばれる担ぎ手により、五穀豊穣を願うみなの願いを込めて、二体の神輿はマツリバに設置された「御仮宮」に安置される。
 古の人々は、この先着争いの着順によりその年の作況を占っていたとも伝えられる。
 また、伝承により、室根にたどり着いた神様をお迎えし、無事勧請の護衛役を果たした地頭集の末裔「荒馬先陣」の勇壮な騎馬武者や、江戸期にこの祭りに花を添えようと、当地の大名が肥後細川家の参勤交代を模して造らせた「袰先陣行列」や土地の名主や有力者が花を添えた「袰祭り」、勧請した熊野神の母君を祀った「御袋神社」や奏上役としての「大先司」などが神に付き従い、総代な歴史絵巻を再現する様は「圧巻」の一言に尽きる。



あとがきにかえて
郡上藤代一族のルーツをたどる旅はとりあえずここでいったん筆を置くことになるが、ここで示された物語はあくまでも一部に残された由来や歴史的事象から推論した仮説に他ならず、あくまで個人的な妄想の範囲を出ない。
しかし、一つの氏姓をもった人々がどのような時代と歴史を経て今日につながっているかという査証としては普遍性のあるテーマであるし、魅力的なモノガタリでもある。
情報の発達著しい今日の世界では、いずれこのようなテーマも検索一発でその関連事象が浮かびあがる日がもそう遠いものではないかもしれない。
いずれにしても、様々な時代と歴史を潜り抜けて生き抜いてきた先人に敬意をささげるとともに、その一人としていずれはお仲間に入れてもらえることは光栄の至りである。

2014年2月21日金曜日

柳田國男 狐猿随筆 狐飛脚の話 五

ある時ぶらぶら病にかかり、巫女にみてもらうと、いつか山畠で働いていて畠の石を投げて棄てたのが、産後の狐を驚かして、そのために母狐と子狐とが死んだ。それで寡夫になった男狐が恨んでいるのだという。某村の稲荷には沢山の良い娘がある。そこへ十分なお供え物をして、どうかその一人をこちらへ嫁に遣るように願をかけてくれ。
その願いが叶うならば病人もきっと全快する。結果は近いうちに狐の嫁入りがあるからわかるとのことであった。その言う通りに一生懸命願掛けをしてさて気を付けていると、果たしてある日の夜が更けてから、向いの山の下に無数の松明の行列があった。本人はそれを見てから元気になり、今でも丈夫で毎度この話をしているという。

今一つ上州の方の話は、出来事ではなくて一般に古風な家では守っている慣例である。嫁取りの晩に、もしも狐の行列の灯を見れば、早速祝言の式を中止して謹慎する。同じ時刻に人間が婚礼をするのは、狐に対して非礼の行為であるから、必ず何らかの災いを受ける。それ故にもの固い人々は嫁入りの日が決まると、十日も前から野山に食物をもって出て狐を祭り、同じ日に狐の方の嫁入りが無いように、もしくは時刻をくりあわせてもらうように祈念するのだという。

2012年8月24日金曜日

白山信仰のふるさと いとしろ



わたしの住む郡上市白鳥町に「石徹白」と書いてイトシロとよむ地区がある。ここは町から山ひとつ越えた
「隠れ里」のようなところで、霊峰白山の真南にあたり、古代中世のむかしから白山信仰のセンターとして
独得の雰囲気をもつ集落が今も奇跡のように残っている。セミナーは、この特異な風土と歴史をもつ
石徹白の面白さをじゅうぶんに味わい、そこから現代を生きる知恵とエネルギーを汲み取ろうとする。 
 
1、セミナーの名称 「越美セミナー いとしろ」  企画・越美ぶんけん 主催・越美セミナーいとしろ実行委員会
                                              後援・郡上市 / 白鳥観光協会
 
2、セミナーの期間  9月15日(土)・16日(日)・17日(祝)の3日間
3、セミナーの内容
  9月15日午後2時開場 白鳥ふれあい創造館 2階大ホール
    (聴いて 学ぶ) 「イトシロの面白さ」 (郷土史家)上村俊邦 ・ 水谷慶一  
    
        このあとバスで石徹白に移動、集落を一巡後、宿泊さきの
        「カルヴィラ・いとしろ」で、地元住民と夕食をともにして懇親会
 
  9月16日午前中  石徹白の大師堂で 
    (見て 学ぶ)   「平泉から来た金銅仏と義経伝説」
              「縄文石器と民俗学との出会い」     
        
        午後   石徹白小学校で
    (からだで学ぶ)  たった十二人の運動会に参加
 
        夕方     野外バーベキューの交歓会      
    (歌い踊って学ぶ) 越前・美濃の古民謡ワークショップ
 
  9月17日 午前  早朝の森林浴 
              朝食前に白山中居神社の神域と大杉のあたりを散策
              
                             朝食後、参加者一同で
         (語って学ぶ)  シンポジウム「さまざまな境界をこえて」
             正午頃、散会して 自由行動 
             貸切バス出発は午後1時頃、帰途、道の駅と温泉によって羽島に向かいます
 
4、宿泊場所  カルヴィラ・いとしろ  郡上市白鳥町石徹白 TEL 0575-86-3700
 
5、参加費   全日参加  26,000円   一泊参加  15,000円
          宿泊ナシでも参加できます  7,500円
          15日の白鳥ふれあい創造館の講演は無料です
        
                    なお全日参加の方には抽選で10名の方に、白山文化を解説した
           梅原猛『歓喜する円空』新潮社 2,200円
          の著者サイン入りの本を後日、進呈します
 
6、交通   東京、関西方面からの方のために、新幹線「ぎふ羽島」駅前に15日午前11時出発の貸切
        バスを用意します。帰りは17日午後5時頃、同駅到着予定で貸切バスを運行します。
        貸切バス料金は 往復 3,600円  通常、羽島駅から郡上白鳥まで約90分を要します。
 
7、申し込みと問い合わせ  http://www.etsmibunka.jp/
 
 

2009年6月9日火曜日

2008年12月1日月曜日

白山信仰とは何か?

白山信仰が今ホットである。

多くの人は「なんですかそれ?」という感じだろうが、
その世界では(どの世界よ!)ひそかに白山詣でが増えている。

とはいっても、単に信仰の対象としてではなく「白山信仰とは何なのか」という問題に対してだ。

旧来からその研究が無かったわけではないのだが、あまりに文献的な資料が少ないことと、その信仰痕跡が広範囲に広がり、地域的な偏差が激しく、さらには時代によってさまざまな要素が入り乱れているため、どうしてもその像を絞り込めないといった状態が長く続いていた。

現在、歴史学、民俗学、宗教学的な立場からさまざまな研究成果が発表されているが、なかなか確信に迫る事ができない。その山容と同じように奥深く神秘的な姿を保ち続けている。

白山信仰はとどのつまり「水」の信仰である。
白山信仰は「祓い神」の祖神である。
養蚕の女神である
朝鮮の渡来神である
天白(北極星)神である
再生(黄泉がえり)の神である


とらえ方はそれぞれだが、
それぞれその性格を有しているようにも見える。

それらの性格に共通なものは、それぞれの時代において恐れと禁忌の対象であったということか。
そのような対象に接近することはことごとく困難であり、デンジャラスな行為といえる。

しかし、現代社会はそのような圧倒的なパワー、人間がコントロールすることが到底困難な力に触れたい、
または浄化されたいという社会意識(科学的な表現ではないが)が高まっているともいえるのではないか?

そのようなちっぽけな知性で、知識欲を満足させようなどと無駄なことを考えず、
その「しろきおやま」を感じる事のほうがずっとサスティナブルなのではないかな?

2008年11月29日土曜日

姫田先生がやってきた。

先日、ドキュメンタリー映像作家の姫田先生が郡上にいらした。

来年の9月に郡上で「山村会議」を実施するための来訪だ。

姫田忠義氏は「民俗映像研究所」を主催し、1960年代から日本各地に残る、
基層文化としての地域の暮らしや人々のありようを映像として残し、
失われかけているその風景をいくつもの作品として世に送り出してきた人だ。

山村会議は、その作品の撮影地となった地域はの人々や、作品を見た人たちが、
地域文化を再発見するきっかけとして自主的に開催されてきた会議として
すでに各地で6回開催されてきている。

去年は三重の御浜で開催されたので私も少し顔を出しどんな感じの内容なのかを
知る事ができた。

郡上開催となったもの、以前郡上の美並村で「粥川風土記」などの記録映像を
製作されたご縁で来年の開催となった。

姫田先生は挨拶で「郡上市の特色として、その中心を流れる長良川の水系と、その
水を生み出している白山山系の山並みを丸ごと市域として抱え、それがこの地域の
基層文化を形作ってきた背景となっており、現在もなお生活の中に生ていることは
世界的にも発信できる価値なのではないか」と語っていました。
この山村会議で何ができるかというのは「地域から学ぶという事」であり、他者が
己を見つける鏡として、その地に生きる人々の生の姿から学ぶ機会だということです。


郡上サイドの推進者としては郷土史研究者の池田勇次先生が引き受けてくださっている。
池田先生も決してこのようなイベントを表に立って運営するのは本意ではないのだろうが、
自分が進めない事には、開催にこきつかないと思ってのことだろう。

今回の実行委員会の事務局には、裏方としてエネルギッシュな若者たちが支えており、
彼らのアイデアや実行力をバネに内容の濃い山村会議になるだろうと期待している。

2008年11月28日金曜日

山の人生

このブログのタイトルにもなっている山の人生という言葉は、
日本の民俗学の祖とも言われる柳田國男の著作からとっている。

経世済民を使命とする明治の農商務省官僚であった柳田は、
日本各地の民の暮らしぶりを視察して廻るなかから、
鄙の地に残る日本人の暮らしぶりの中に、
今にも無くなりそうなその地に残る固有の文化と暮らしぶりを
目の当りにし、それを記録し「目の前の事実」として残した。

そして、それら地域に残る民間伝承や事象を比較研究する中で、
古来から日本人がどのような変節を経て現在に至るかを推考し、
日本民俗学の基礎を築いたと言われている。

柳田國男が100年前に「今まさに消えようとしている」事実は、
たぶんもうすでに失われている「事実」であり、私たちはその事を
書物とか記録を通してしか知る事ができない。

記録された物(事)を通して知るという事がどういうことか、
現代に生きる私たちはその事を深く考えないで暮らしていける。
というよりも、
そのような物や事を「記録されたもの」の情報として知っていると
認識している。

私たちはそのような情報の中に生きているので、
その意味をなかなか理解する事ができないが、
知るということの根源には本来共有するという感覚が
前提としてあるということを、忘却して生活している。

それはたぶん、人間が感知できる器官としての退化に他ならない。
その地の気候風土や地理的条件を感知し、その地に吹く風や、咲く花の中に
人が生きていくための情報を読み取る能力や蓄積が退化しているということだ。

日本の民俗学や歴史家、在野の郷土史家達はそのように地に這うように暮らしてきた
日本人の暮らしぶりをたどり推考し、その記録を今日に残しているが、
一方でそれを受け取る情報の受け手がその感覚や感性を喪失している事も事実としてある。

そのぎりぎりの世代、
その感性をまだ体内に器官として残している世代が、
もう80歳を越そうとしている。
彼らがその感覚として持っていた器官は、
長い間社会の中で「時代遅れ、迷信」として一笑され、
発露を見失っていた。

それは「社会の中でなんの価値もない想念」として抹殺された
といっても過言ではない。
彼らは、その事に異議を唱える機会も、手段もないままに、
常世のコミュニティーに移行していくのだろう。

「山に埋もれたる人生」とはこのことだ。

しかし、
埋もれたものは掘り起こすしかないのだ。
掘り起こすためには、その器官を開発するしかないのである。
それは、
その景色の中に身を置き、その身体で風や土や人と触れ合うなかで、
少しずつ感覚を取り戻すという行為と身体体験が必要なのだ。

このブログはそのような経験譚を少しづつ聞き書き、
埋もれたるものを掘り起こそうという身体行為の記録として残したい。