2008年11月28日金曜日

山の人生

このブログのタイトルにもなっている山の人生という言葉は、
日本の民俗学の祖とも言われる柳田國男の著作からとっている。

経世済民を使命とする明治の農商務省官僚であった柳田は、
日本各地の民の暮らしぶりを視察して廻るなかから、
鄙の地に残る日本人の暮らしぶりの中に、
今にも無くなりそうなその地に残る固有の文化と暮らしぶりを
目の当りにし、それを記録し「目の前の事実」として残した。

そして、それら地域に残る民間伝承や事象を比較研究する中で、
古来から日本人がどのような変節を経て現在に至るかを推考し、
日本民俗学の基礎を築いたと言われている。

柳田國男が100年前に「今まさに消えようとしている」事実は、
たぶんもうすでに失われている「事実」であり、私たちはその事を
書物とか記録を通してしか知る事ができない。

記録された物(事)を通して知るという事がどういうことか、
現代に生きる私たちはその事を深く考えないで暮らしていける。
というよりも、
そのような物や事を「記録されたもの」の情報として知っていると
認識している。

私たちはそのような情報の中に生きているので、
その意味をなかなか理解する事ができないが、
知るということの根源には本来共有するという感覚が
前提としてあるということを、忘却して生活している。

それはたぶん、人間が感知できる器官としての退化に他ならない。
その地の気候風土や地理的条件を感知し、その地に吹く風や、咲く花の中に
人が生きていくための情報を読み取る能力や蓄積が退化しているということだ。

日本の民俗学や歴史家、在野の郷土史家達はそのように地に這うように暮らしてきた
日本人の暮らしぶりをたどり推考し、その記録を今日に残しているが、
一方でそれを受け取る情報の受け手がその感覚や感性を喪失している事も事実としてある。

そのぎりぎりの世代、
その感性をまだ体内に器官として残している世代が、
もう80歳を越そうとしている。
彼らがその感覚として持っていた器官は、
長い間社会の中で「時代遅れ、迷信」として一笑され、
発露を見失っていた。

それは「社会の中でなんの価値もない想念」として抹殺された
といっても過言ではない。
彼らは、その事に異議を唱える機会も、手段もないままに、
常世のコミュニティーに移行していくのだろう。

「山に埋もれたる人生」とはこのことだ。

しかし、
埋もれたものは掘り起こすしかないのだ。
掘り起こすためには、その器官を開発するしかないのである。
それは、
その景色の中に身を置き、その身体で風や土や人と触れ合うなかで、
少しずつ感覚を取り戻すという行為と身体体験が必要なのだ。

このブログはそのような経験譚を少しづつ聞き書き、
埋もれたるものを掘り起こそうという身体行為の記録として残したい。

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