2008年11月24日月曜日

ジャックマイヨールとみそぎ

ある友達の若い頃の放浪の話を聞いていて面白い話しを聞いた。
彼は若い頃世界を放浪し、小笠原の地にも長い間逗留したそうだ。その時他にやる事もないので見よう見真似で潜水をしていたら徐々に深くまでもぐる事ができるようになり、マイヨールのような呼吸法も自然に身につけることができたという。

私はその話を聞いていて、「水に潜(もぐ)る」ということの神秘性を思った。
私達にはエラがない(当たり前だが)だから水中で呼吸する事ができない。
それは「人は鳥のように飛ぶ事ができない」という命題と同じく人間の根源的な無能力を示している。
この世で人間にはできない事=(信仰としての)あの世の実存性という図式が古来より成り立っている。人は死んだら海の向こうの水底に行ったり、高き山の頂上に飛んでいったり、
地上の底にあるという地獄に行ったりするという想念の発生だ。

そう考えると、禊(みそぎ)祓(はらい)という行為の持つ日本古来の精神世界の想念は、この世の不浄(死を回避できない肉体)を水を潜(くぐ)るとこで活性させる擬似再生の儀式」であり、水に潜るという行為により活性化する、DNAに潜むの無意識のパワーを引き出す行為なのかもしれないと。

私の棲む地方には、白山山系から湧き出で沁み出す水が集まり、長良川という清らかな水系を形成していくさまざまな川があり、その川の清らかな流れの中で子供達は夏を過ごし、それを忘れられない大人たちは寝る時間を削って、朝な夕な、魚取りという大義名分の名の下に深夜まで川に入り遊んでいる。
それは言わば川の神、水の神による禊神事であり、川から上がってきた男達はなぜか色っぽく生命感に溢れた表情になるのである。

1 件のコメント:

maeda さんのコメント...

そう言えば子供の頃、よく川に遊びに行って水の中で潜っていました。

川での水泳というのは基本的に「泳ぐ」ではなく「潜る」という行為だったように記憶しています。

深い淵に潜って、川底の岩を覗き込み魚を捕ったり、何の目的も無く川底の岩を抱いて、水面を見ているといった遊びをよくしていました。

深い水の中にいると、聞こえるのは自分の心臓の鼓動と血流の流れのような川の音だけです。それは母体の中にいる記憶に近い安心感があるのかもしれません。